ぶどうの味を、どう伝えたらいいのか
年間6万房以上のぶどうを栽培している農家のひろゆきです。
最近、ぶどうを作りながら、なんとなく引っかかっていることがあります。
ぶどうの出来や天候の話ではなくて、ぶどうの味を、説明しすぎていないかという感覚です。
これは誰かを批判したいわけではありません。自分自身も、ずっと説明してきた側なので、だからこそ一度立ち止まって考えてみたくなりました。
Contents
生産者として思うこと
正直に言うと、私はこれまで、かなり説明してきた方だと思います。
糖度のこと。
色づきのこと。
どう育てているか、どれくらい手がかかっているか。
ちゃんと伝えることが、買う人の安心につながると思ってきました。
説明することは誠実さであり、責任でもある。その考え自体は、今でも変わっていません。
ただ、説明が増えていくにつれて、言葉の役割が少しずつ変わってきていないか、と感じるようになりました。
味を伝えるための説明が、いつの間にか評価を安定させるための説明になっていないか、という違和感です。
生きものとしてのぶどう
ぶどうは、本来、生きものです。
同じ品種でも年によって味は変わりますし、同じ年でも、季節や天候で印象はかなり違います。
収穫のタイミングひとつで、軽く感じたり、甘みが前に出たり、香りの印象が変わることもあります。
それは欠点ではなくて、ごく自然なことです。
むしろ、生きものを扱っている以上、揺らぎがあるのは当たり前だと思っています。
ただ、説明を重ねるうちに、その揺らぎをできるだけ小さく見せようとしていないか。毎年同じ味として語ろうとしていないか。
そこに、少し引っかかりを感じています。
消費者として思うこと
一方で、消費者としての立場に立つと、説明があることのありがたさも、正直感じます。
選びやすいですし、安心して買うことができます。
特に贈り物のときは、理由があった方が助かります。
ただ、説明が多すぎると、「自分がどう感じたか」よりも、説明どおりだったかどうかを確かめるように食べてしまうことがあります。
今日は甘く感じる日もあれば、酸が印象に残る日もある。去年の方が好きだった、という年があってもいい。
それでもいいはずなのに、説明が多いと、そう感じてしまう自分をどこか否定してしまう。
それは、少し窮屈だなと思います。
おわりに
私が言いたいのは、説明をやめよう、ということではありません。
ただ、生きものの味を、言葉で固定しすぎていないか。揺らいでいていいものを、揺らがないものとして伝えてしまっていないか。
そこに、一度立ち止まってみたい、という話です。
ぶどうと人のあいだに、季節や揺らぎが入り込む余白が少し残っていた方がいい。
その方が、作る側も、食べる側も、もう少し正直でいられる気がしています。
畑で、そんなことを考えています。