AI時代に、農業の「遅い」という価値
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はじめに。僕が畑に立ちながら考えていること
皆さんこんにちは。農家のひろゆきです。
少し長い話になりますが、今日は「なぜ今、農業の価値が高まっているのか」について、畑に立ちながら感じていることを書いています。
私は毎日ぶどう畑で仕事をしながら、ノウタスでは農業と社会の新しい関わり方を事業として考えています。
速く、分かりやすい社会の中で
AIやテクノロジーが進化し、社会は驚くほど速く、そして分かりやすくなりました。
問いを立てる前に答えが出て、迷う前に理由や背景まで整理された最適解が並び、理解すること自体に時間を使わなくてもよくなっています。
便利で、助けられている実感は確かにあります。ただ最近は、その「助けられすぎている感じ」に、少し息苦しさを覚えることもあります。
理解はできているのに、身体のどこにも何も残らないまま、次へ進んでいくような感覚です。
農業は、まったく違う速度で進む
畑に立っていると、そうした世界とは正反対の速度で進む仕事が、ここにはあります。
天気は選べず、生育は早送りできず、結果が出るまでただ待つしかないという当たり前の時間が、毎日淡々と積み重なっていきます。
効率だけで見れば、農業はどう考えても不利な仕事です。
「遅さ」とは、判断を引き受ける時間
ただ、農業の「遅さ」は、単に作業に時間がかかるという話ではありません。
判断を外に預けられない時間が長く続き、正解が分からないまま進み、自分の感覚で待つことを引き受け続けなければならないという遅さです。
天候も作業の順番も、「これでいく」と決めるのは常に自分であり、説明書も保証もなく、その判断の結果を、あとから受け取るしかありません。
人と自然の速度が重なる仕事
人が理解し、納得し、身体で覚えるには時間がかかります。自然もまた、同じ速度でしか進みません。
季節は飛ばせず、生育は待つ以外に方法がなく、農業の速度は、人の身体感覚と自然の時間が、ほぼそのまま重なっています。
だから農業をしていると、急がされている感覚が少しずつ消えていきます。
速く進めない代わりに、置いていかれもしない。分からないまま分からない時間を過ごすことが、仕事として許されている感覚です。
「分かりやすさ疲れ」と農業
分かりやすさは、確かに価値です。でも最近は、説明されすぎることに疲れている人も増えているように感じます。
要点は整理され、意味も理解できる。それでも、自分で考えたという感触が残らないまま終わってしまう場面が多くなりました。
農業は、その逆にあります。
分かりにくく、時間がかかり、やってみなければ何も見えてこない。だからこそ今、この分かりにくさそのものが、体験として希少になり始めているのかもしれません。
現場の仕事が、静かに見直されている
最近は農業だけでなく、工場や建設、整備、物流といった現場の仕事にも、同じような空気が戻りつつあるように感じることがあります。
毎回状況が違い、判断は都度変わり、身体の感覚が結果に影響し、説明よりも経験がものを言う仕事が、静かに見直され始めているように見えます。
農業もまた、その延長線上にある仕事だと感じています。
なぜ今、農業に惹かれる人がいるのか
数年前なら農業を選択肢に入れなかっただろう人たちが、なぜか農業に関心を持ち始めていることにも、最近は不思議さを覚えています。
ビジネスの世界で速さと成果を求められ続けてきた人たちが、儲けの話ではなく、畑に立つ感覚そのものに価値を見出しているように見えることがあります。
正解を求められない農業という時間の流れそのものに、価値を感じているようにも見えます。
人手不足ではなく、関わり方の問題
農業は人手不足だと言われます。ただ、現場に立って感じるのは、人がいないというより、関わり方が見えにくいという感覚です。
最初から深く入る前提、覚悟を決める前提、簡単には離れられない前提が、「やってみたい」という気持ちを、入り口の手前で止めてしまっている構造も、確かにあります。
おわりに|遅さが残してくれるもの
ここまで書いてきたことは、何かの正解を示したいわけではありません。あくまで、一人の農家として、畑に立ちながら感じている実感です。
ただ、AIが速く分かりやすく進めば進むほど、遅くて分かりにくい仕事の価値は、静かに浮かび上がってくるように思います。
その一つが、農業なのではないかと、最近は感じています。
最初からすべてを背負わなくてもよく、分からないまま関わることも許され、遅いからこそ立ち止まり、考え直し、引き返すこともできる。
今日も畑に立ちながら、そんなことを考えています。